人の心を客体とみなすのは必要悪だ

以下の3つの状態がある。

A: 人の心を経験から感性的に理解する

B: 人の心を理論から理性的に理解する

C: 人の心が全く分からない

私の中にあるのはBとCの比較だ。人の心を理論的に理解するか、それとも全く分からないかだ。Aのように感性的に理解するのは難しすぎる。世の中には物事を感性で理解するのが得意な人と、理性で理解するのが得意な人がいる。私はバリバリ理性を重視する人間だ。人の心を感性的に理解するなんて、人間心理に関する理論を知らない状態ではできそうもない。まず理論を学び、その後感性に移行する。そういったやり方でないとできないんじゃないかと思っている。

しかし、人によっては「人の心を理論から理解するのが良い」と聞くと嫌悪感を催すかもしれない。その人にはAしか見えていないのだ。人の心は経験から感性的に理解するものだと思っている。だから、「人の心を理論的に理解しよう」という主張を聞くと、「感性で理解するか、理論で理解するか」の二択だと思ってしまう。AとBの比較だ。「そりゃ感性で理解するに決まってるやろ!」と主張したくなるのも頷ける。

しかし、私の場合はそうではない。Aは難しすぎる。あるのはBとCの比較だ。そしてCのように人の心が全く分からない状態では意図せず人に迷惑をかけるし、そのせいで自分も生きづらくなる。だからやむなく「人の心を理論的に理解するのが良い、そのために性格診断ツールを利用するのが良い」と主張している。

人の心を客体とみなして分析、分類、最適化を行うのは必要悪だ。人間に「愛情」という機能が実装されている以上、心は感性的に理解すべき対象とされるが、感性のみに頼るのも危険ではなかろうか。ある程度は割り切って捉えた方がスムーズにいく場面もあると思われる。その「ある程度」が特に広い人間もいる、とご理解いただければ幸いである。もちろん、そのモードを日常生活で出さない方が良い、という風に気を付ける必要はあるが。

人の性格をシステマティックに学ぼう

昔から「人は一人ひとり違う」と言うことがあった。しかし、数年前までそれはお題目でしかなく、どういった点がどれほど違うかについて知識も経験も持ち合わせていなかった。世の中的にそう言われているから自分もそう言っていただけだ。

感受性の強い人なら「人は一人ひとり違う」ということを経験から学べるのかもしれない。人の言動や行動から心の中を自然に推測でき、「ものの見方は人によって全然違うのだなあ」ということを実感をもって学べるのかもしれない。しかし、残念ながら私はそのセンサが弱い。むしろ「人と話すときは感情に着目せねばならない」ということが最近まで分からなかったので、それ以前の問題かもしれない。それでも以前よりは人の個別性について理解できた自信がある。それは性格診断ツール(と言って良いか分からないけれど)を学んだからだ。

世の中には人の性格をシステマティックに整理したツールがある。これにより、自分の性格が唯一絶対のものでないことを学べる。そんなの当たり前じゃないか、と思うかもしれない。しかし、私はそれが分からなかった。(世の中の人はみな身の回りの物事を分析している)と思っていたし、(抽象的な物事についての知識を集めようとしている)と思っていた。そうでないことを知ったのは性格診断ツールについて学んだからだ。「あなたはざっくり言ってこういう性格だと思われます」と出してくれるので、(これは俺の特徴なんだな、世の中の人がみんなそうではないんだな)と知ることができる。

性格診断ツール(と言って良いか分からないけれど)には多くの種類がある。学術的には5因子モデルがよく使われるらしい。似たような因子が出てこないよう因子数を必要最低限に絞ったらしい。他にも、MBTI、エニアグラム、ストレングスファインダー(クリフトンストレングス)など、多種多様なツールが存在する。MBTIでは人の性格モデルを16種類提示しているし、エニアグラムでは9種類提示している。ストレングスファインダーでは、人の資質を34種類にまとめ、これらを1位から34位まで順位づけしてくれる。これらのうち自分にとってしっくりくるものを学んでみると人間理解が深まるかもしれない。そうすることで、ありのままの自分を受け入れやすくなったり、人との関係が上手くいきやすくなったりするかもしれない。そしてひいては人生が上手くいきやすくなる可能性がある。人は生きている限り人間関係から逃れられないのだから、人間の性格について体系的に学んでみるのはおすすめだ。

対人関係の基本中の基本

対人関係においては下記の2段階を踏み続けることが求められる。常に、イチニ、イチニ、とやらなければならない。

 

1. 他者の内面のモデル化

人間は内部状態をもつ関数である。環境や周囲の人からの入力に応じて内部状態(感情や思考)を変化させ、それに応じて出力(言動や行動、特に感情表出)を提示している。出力は言動の内容だけでなく、声のトーンや目の動き、体の動きなど全身で発するものである。

問題は、この関数形が人によって違うことである。なので、「自分はこんな入力が与えられると内部状態がこうなって出力がこうなる。だから相手もそうだろう」と安易に決めつけてはならない。代わりに、会う人一人ひとりに対して、「この人はこんな入力が与えられると内部状態がこうなって出力はこうなるかな?」とモデル化を行う必要がある。ただしモデルは完璧ではないので、その人との関わりを通じて関数形をアップデートし続けることが求められる。

モデル化の精度を上げる訓練として、経験を積む以外に

  • 人の性格をシステマティックに学ぶ
  • 人が書いた文章を音読する(前提: 出力から内面を推定する回路が発達していること)

が例えばあるだろうか。

d231618130.hatenablog.com

 

2. 己の行動の最適化

他者の内面のモデルが己の中にあれば、「この人はどういう入力を与えられたときに内部状態がどう変化し、どのような出力を出すのか?」ということが推測できるようになる。そのモデルを使い、「この人の内面を最適な状態にするにはどのような入力を印加すれば良いだろうか?」という逆問題(最適化問題)を解くのである。そして、自分なりに出した解を実際に行動に移し(これが相手にとっての入力となる)、相手の出力を観察する。相手の出力が想定通りであれば良いし、想定外なら他者内面モデルをブラッシュアップする機会である。こうして段階1にフィードバックされる。

 

 

最後に、大事なことだが、こういった発言は人によっては嫌悪感を催す可能性がある。私は対人関係の構造を明確にするためにこの記事を書いているが、人によっては「人の心をモノ扱いしている」と捉えられかねない。その意味で、発言する際はTPOを弁えた方が良い。リアルはインターネットと比べて「嫌なら見るな」が通用しづらいからだ。

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認識レベル論

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理解度には3つの段階がある。レベル3の人は目の前の物事を理解できている。新入社員が会社の役職体系を既に把握していたり、仲良くしたい人の気持ちを理解していたりする状態に相当する。

レベル2と1の違いは何か。それは、問題のありかを認識できているかどうかだ。レベル2の新入社員は役職体系はまだ知らないが、役職がどういうものかは分かっている。だから上司や先輩に「この会社の役職体系はどうなっているんですか?」と聞くことができる。同様に、レベル2の人は「人と話すときは言葉を表面的に見るだけでなく、相手の心に着目して話を聞かねばならない」という認識がある。だから(あの人の気持ちが分からない)と悩むことになる。

ではレベル1とはどういう状態か。役職がどういうものか理解できていなかったり、人と話すときは心に着目すべきということが分かっていない状態だ(ちなみに後者は過去の僕だ)。レベル1の人に「課長に話を通す前に係長に〜〜〜」と声をかけても効果は期待できない。同様に、「あの人がどんな気持ちだったか分かる?」と言ってもたぶん意味がない。それ以前の問題だからだ。

一般に「分かっている」とはレベル3を指し、「分かっていない」とはレベル2と1を指す。しかし、レベル3と2はそれほど離れていない。レベル2の人は知識を与えれば比較的容易にレベル3に移行することができる。本当に溝が深いのはレベル2と1の間だ。レベル1の人は「そもそもそういう発想がない」から何をしたらいいか分からない。そしてそれは周囲だって分からない。だってまさかそんなことでつまづいてるなんて思わないでしょう。だからレベル2の人向けのアドバイスをレベル1の人にしてしまいがちだ。世の中にはレベル1の人向けのアドバイスが少ないように感じる。「常識」「当たり前」「それぐらい知っとけ」「厳しい」なんて言葉で片づけてしまいがちだ。

 

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同様の構図は問題解決にも当てはまるかもしれない。レベル3の人は問題を解決する力がある。レベル2の人は自力では問題を解決できないが、問題があることは認識しているので人に頼ることができるかもしれない。問題はレベル1の人だ。問題があることにすら気づいていない。

最近これを感じたことがある。これまで「己に影響しない限りは人の人生に干渉しない」ことをポリシーにしてきたつもりだった。さらには、自分に影響がないのに人の人生に首を突っ込もうとする人を(分かってないな)と見下すことすらあった。ただ、これは自分がレベル1だった。僕は確かに人の人生には干渉しないかもしれないが、人の研究には普通に干渉していることに気付いた。なのに人の人生には干渉しない。研究は興味あるが人には興味がないからだ。人に興味がないから無関心でいただけだったのだ。これは人に興味を持った上で相手を「個」として尊重することとは大きく異なる。天と地ほど異なる。自分に問題があることすら分からずに、自分がレベル3だと自惚れていたのだ。

レベル3とレベル1は当人からすれば似ているのかもしれない。レベル3の人がレベル2の人に向けて言った言葉をレベル1の人が聞くと、「俺は大丈夫だ」と思うかもしれない。問題の所在を認識してないからだ。まずは悩めるようになれ、話はそれからだ。

最適レベルと機能レベル 〜『成人発達理論による能力の成長ーダイナミックスキル理論の実践的活用法ー』の第1章を読んで〜

私は理論が好きだ。理論に基づいて成長を考えよう、と言われるとつい手が伸びてしまう。何となく感じていることを明確に言語化されるのは気持ちが良い。

まだ第1章しか読めていないが、特に印象に残った概念は「最適レベルと機能レベル」だ。最適レベルは他者からの支援がある状態で発揮できる能力レベルで、機能レベルは支援がない状態での能力レベルだ。本書は、最適レベルと機能レベルの間にはギャップがあり、しかもそれは年長者ほど大きいという。そこから「支援の重要性は大人ほど高まる」という主張が導かれている。

自他をこのような角度で考えたことがなかったので、深く印象に残った。確かに、他の方にガイドしていただいたとき、思いもよらぬほど考えが深まったり新たな考えが出てきたりしたことがある。また、「話しやすい人」はいる。ここから、「自らの状況を最適レベルと機能レベルの枠組みで認識し、どのような環境が自分にとって最適かを考えよう」という発想が生まれた。また、「他の方にも最適レベルと機能レベルがあるから、いかに最適レベルを発揮しやすい環境に自分がなるか」という方向性で物事を考えよう、というモチベーションも生まれた。後者は今すぐには(少なくとも機能レベル的には)難しそうだが、このような方向性が得られたことは進歩である。

しかし、繰り返すが、いかに実行していくかは難しい。これまで鍛えてきたスキルは主にインプットで、アウトプットはいまいちだ。これらの能力は掛け算で効くであろうから、自分なりのアウトプットの方法論を構築した方が良いのだろうな、と思っている。勉強と試行錯誤と体系化のループを回すべし、だ。

 

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全能感を取り戻しました

幼い子供は全能感を抱きがちだが、いずれ自分の適性が見えてきて全能感を失うという。確かに俺もこのパターンだったかもしれない。最近までは全能感を持っていなかった。

全能感を取り戻したのは新たな道具を獲得したからだ。それは「原理原則から目の前の現実までを一気通貫で捉える力」だ。目の前の現実を要素に分解し、本質を見極めた上で本質世界で方針を定め、それを現実の行動に落とし込むスキルだ。数学の勉強で論理展開を追う際は公理から演繹的に考えていく。工学は現実の物事を対象とするが、工学の研究でも類似の思考法が用いられていることを知った。しかもそれはかなり有効であるらしい。

最近はこの新たな道具を人生分野に水平展開しようとしている。これまで俺は人生を経験に基づいて遂行してきた。ここに理論という新たなアプローチを加えようと思っている。例えて言うなら、これまでハサミしか知らなかった人がカッターナイフを知ったようなものだろう。ハサミで切れるものもあるが、切りにくいもの、切れないものもある。ハサミでは切れなかったものも、カッターナイフという新たな道具を使えばうまく切れるかもしれない。大事なのは「選択肢が増えた」ということだ。これまでは一択だったのが、複数の選択肢を比較検討できるようになったということだ。もちろん、ハサミでもカッターナイフでもうまく切れないものはあるだろう。それは致し方ない。ただ、カッターナイフという新しい道具はいつどのように使うものなのか、そしてそれは自分の人生をどう変えてくれるのか、しばらくは探索してみたい。