老害化しないためには自分のやり方を相対化して捉えるべき

老害という言葉がある。ここでは「合理的に検討することなく新しいやり方を拒絶し、自分が慣れ親しんだやり方にこだわる人」と定義しよう。「老」の字が入っているから誤解されやすいが、老害に年齢は関係ない(少なくとも原理的には)。従来法と新規法を広く深く比較せずに従来法にこだわる人間は20代でも10代でも老害である。逆に、従来法と新規法を合理的に比較した上で従来法を選ぶ行為は老害ではない。むしろ無批判に新規法にこだわる行為こそ害となりうる。

ここで、私が老害化したエピソードを紹介する。理系大学院生は多量の英語論文を読む必要があるが、私の大学院生時代は高性能な機械翻訳サイトがなかったので英語論文を原文のまま読んでいた。私はTOEICで900点以上取得しているが、それでも日本語論文の10倍以上の時間を要していた。大学院修了後、DeepLという高性能な機械翻訳サイトが現れ、大学院生は英語論文を和訳して読むようになり読解効率が大幅に向上した。その時最初に思ったのは、(英語論文は原文で読むものだ。機械翻訳にかけて読むなどとんでもない)ということだ。これは老害の定義に該当する。原文読解と機械翻訳を比較することなく、「自分がそうしてきたから」というだけで機械翻訳を拒絶したからだ。そこから「自分が老害化した」と自覚し、機械翻訳の良さを腹の底から認識するまで1ヶ月ほどかかってしまった。(なお、今では機械翻訳を利用しまくっている)

自分の行為は相対化して捉える必要がある。たとえ自分なりのやり方で成功したとしても、「自分が今やっていることは目的達成のための一つの手段にすぎない」とメタ的に捉えた上で、「本当にこのやり方が目的達成に最適だろうか?」と問うた方が良い。そうすることで、新規法を提示された時に従来法と新規法の利点欠点や適用条件が見え、最適な意思決定に繋がりやすくなるだろう。機械翻訳の例で私が持つべきだった意識は、「英語論文の原文読解は知識を得るためであり、より効率的に知識を得られる方法があればその方が良い」というものだ。むろん日常のありとあらゆることをメタ的に捉えるのは非現実的だが、自分の思考・行動をメタ的に捉えることの重要性を認識するだけでもかなり違ってくるだろう。

 

*私は保守的な人間ではないつもりだ。むしろ新しいものが好きなつもりでいた。にもかかわらず従来法に拘ってしまったことはこの問題の深刻さを表しているといえる。