「裏切られた」と感じるのは「〇〇さんに××してほしい」と思っているから

「裏切り」という言葉は生まれてこのかた使った覚えがない。多分これからも使わないだろう。・・・とはいえ、「裏切り」に相当する行為をされたことはあっただろう。自分の中で「裏切り」と表現しないだけだ。

「裏切り」という言葉を使うのはどういう人たちか。思うに、他者に対し「積極的なコントロール」をしたい人たちではなかろうか、と推測する。

 

我々は多かれ少なかれ「他者をコントロールしたい」との欲求を持っている。「友人には気遣ってほしい」というのもコントロールだし、「もう関わらないでほしい」というのもコントロールだ。むろん、「コントロール」という単語のニュアンスにそぐわないケースもあるが、内容はコントロールと表現できる。

他者のコントロールは「積極的なコントロール」と「消極的なコントロール」に大別される。積極的なコントロールは「〇〇さんに××してほしい」というもので、消極的なコントロールは「××されたくない」というものだ。積極的なコントロールは他者に行動することを要求し、消極的なそれは行動しないことを求めている。

他者をどれぐらいコントロールしたいかはパーソナリティによる。また、積極的なコントロールと消極的なコントロールのどちらを求めるかもパーソナリティによる。例えば、私は積極的なコントロールの欲求は強くないが、消極的なコントロールの欲求は強い。つまり「××してほしい」と思うことは少ないが、「××してほしくない」と思うことは多い(なので、私の扱いとして、放っておけば嫌われることはないだろう)。その一方で、積極的なコントロールがしたいとの欲求を持つ人もいるだろう。そういう人は「〇〇さんに××してほしい」という約束や期待を日常的に行う傾向があり、それが実現されないと「裏切られた」と感じるのではなかろうか。自分の欲求が満たされなかったからだ。

他者をコントロールしたいと感じるのは人間のデフォルト欲求だ。しかし、他者は独自の考え方や動機付けにしたがって動いているので、他者の言動や行動が自分の欲求を満たしてくれるとは限らない。この状況を打破するために他者をねじ伏せようとする人もいるが、仮にねじ伏せに成功しても、今後似たようなタイプの人に会うたびに同じ思いをせねばならないだろう。そう考えると、長期視点での解決策は、「自分は他者をコントロールしたいと思っている」と自覚した上で、「他者はコントロールできない」という認識を腹の底から持つことではなかろうか。あれ、「裏切り」関係なくないっすか??