肉食は倫理的に容認できないので人工肉の研究開発を推進しよう

善悪判断のプロセスは2つに大別される。すなわち、(1)身の回りで言われる善悪判断をそのまま取り込んだ形での判断、(2)倫理上の大原則からの演繹、である。

我々は善悪判断に関する様々なメッセージを日々受け取る。それは周囲の人が直接的に発言するものでもあり、社会環境から何となく受け取るものでもある。我々はそういったメッセージを総合して「こういうことをしてはいけない」「こういう行為は原則として許されないが、こういう場面ならやむを得ない」「こういう行為は望ましいが、他者に強要することではない」など、様々な善悪の落とし所を蓄積させていく。これが上記(1)の「身の回りで言われる善悪判断をそのまま取り込んだ形での判断」である。

他方、(2)の「倫理上の大原則からの演繹」は全然違ったものである。「最大多数の最大幸福」など倫理上の大原則を打ち立てた上で、演繹的な論理操作によって具体的な問題の善悪を検討する。例えば、「最大多数の最大幸福を実現することが善であるから、目の前の人を嬉しい気持ちにさせることは善だ」といった思考プロセスをとる。本稿では立ち入らないが、倫理上の大原則として帰結主義功利主義)、義務論、徳倫理学という3つの大きな考え方があるらしい。

善悪判断のプロセスとして(1)と(2)は一長一短だ。大原則から演繹する方法の欠点は、自然な日常直観を軽視し、「上手く言語化できないが確実に重要」なものを切り捨てかねないことだ。それゆえ、経験上、日常場面では周囲で言われる判断基準に軍配が上がることが多いようだ。その一方で、この判断プロセスにも欠点がある。それは、既存の差別構造に慣れているがゆえにそれを差別と同定できず、差別構造や搾取構造を温存しかねない点だ。その欠点を補うのが大原則に基づく倫理判断である。大原則に基づく倫理判断では「本来どうあるべきか」を考えるので、現状の理不尽を否定するのに都合が良い。例えば、「最大多数の最大幸福」という大原則は、19世紀ヨーロッパで絶対君主の圧政を否定する際の理論的支柱となった。以上の議論より、日常場面では周囲で言われる倫理判断基準を採用し、折に触れて大原則から思考して倫理規範を見直す、と2つの考え方を使い分けるのが良いだろう。

さて、倫理上の大原則として「感覚や感情を持つ全てのものは、その特性に応じた配慮を受ける権利を持つ」という考え方がある。ここから論理的に演繹すれば、牛豚鶏は感覚や感情を持つので、人類による肉食など到底容認できないことになる。肉はタンパク源として有用ではあるが、せっかく人類は高い科学技術力を手に入れたのだから、人工的なタンパク源の研究開発を推進するべきだ。また、脱肉食のライフスタイルを容易にするような社会設計を行うべきだ。例えば植物由来の美味しい模擬肉を開発・販売することが挙げられる。それが「感覚や感情を持つ全てのものは、その特性に応じた配慮を受ける権利を持つ」という理念に適う方針であるだろう。

 

*「肉食は自然の摂理」という考え方がある。しかし、それは「今までそうしてきたから今後もそのままでいい」という悪しき前例主義である。自然界は繁殖最大化は目指しても個体の幸福は考慮しないので、自然の摂理を盲従せず、幸福を最大化するような社会設計を行うべきである。