「裏切られた」と感じるのは「〇〇さんに××してほしい」と思っているから

「裏切り」という言葉は生まれてこのかた使った覚えがない。多分これからも使わないだろう。・・・とはいえ、「裏切り」に相当する行為をされたことはあっただろう。自分の中で「裏切り」と表現しないだけだ。

「裏切り」という言葉を使うのはどういう人たちか。思うに、他者に対し「積極的なコントロール」をしたい人たちではなかろうか、と推測する。

 

我々は多かれ少なかれ「他者をコントロールしたい」との欲求を持っている。「友人には気遣ってほしい」というのもコントロールだし、「もう関わらないでほしい」というのもコントロールだ。むろん、「コントロール」という単語のニュアンスにそぐわないケースもあるが、内容はコントロールと表現できる。

他者のコントロールは「積極的なコントロール」と「消極的なコントロール」に大別される。積極的なコントロールは「〇〇さんに××してほしい」というもので、消極的なコントロールは「××されたくない」というものだ。積極的なコントロールは他者に行動することを要求し、消極的なそれは行動しないことを求めている。

他者をどれぐらいコントロールしたいかはパーソナリティによる。また、積極的なコントロールと消極的なコントロールのどちらを求めるかもパーソナリティによる。例えば、私は積極的なコントロールの欲求は強くないが、消極的なコントロールの欲求は強い。つまり「××してほしい」と思うことは少ないが、「××してほしくない」と思うことは多い(なので、私の扱いとして、放っておけば嫌われることはないだろう)。その一方で、積極的なコントロールがしたいとの欲求を持つ人もいるだろう。そういう人は「〇〇さんに××してほしい」という約束や期待を日常的に行う傾向があり、それが実現されないと「裏切られた」と感じるのではなかろうか。自分の欲求が満たされなかったからだ。

他者をコントロールしたいと感じるのは人間のデフォルト欲求だ。しかし、他者は独自の考え方や動機付けにしたがって動いているので、他者の言動や行動が自分の欲求を満たしてくれるとは限らない。この状況を打破するために他者をねじ伏せようとする人もいるが、仮にねじ伏せに成功しても、今後似たようなタイプの人に会うたびに同じ思いをせねばならないだろう。そう考えると、長期視点での解決策は、「自分は他者をコントロールしたいと思っている」と自覚した上で、「他者はコントロールできない」という認識を腹の底から持つことではなかろうか。あれ、「裏切り」関係なくないっすか??

肉食は倫理的に容認できないので人工肉の研究開発を推進しよう

善悪判断のプロセスは2つに大別される。すなわち、(1)身の回りで言われる善悪判断をそのまま取り込んだ形での判断、(2)倫理上の大原則からの演繹、である。

我々は善悪判断に関する様々なメッセージを日々受け取る。それは周囲の人が直接的に発言するものでもあり、社会環境から何となく受け取るものでもある。我々はそういったメッセージを総合して「こういうことをしてはいけない」「こういう行為は原則として許されないが、こういう場面ならやむを得ない」「こういう行為は望ましいが、他者に強要することではない」など、様々な善悪の落とし所を蓄積させていく。これが上記(1)の「身の回りで言われる善悪判断をそのまま取り込んだ形での判断」である。

他方、(2)の「倫理上の大原則からの演繹」は全然違ったものである。「最大多数の最大幸福」など倫理上の大原則を打ち立てた上で、演繹的な論理操作によって具体的な問題の善悪を検討する。例えば、「最大多数の最大幸福を実現することが善であるから、目の前の人を嬉しい気持ちにさせることは善だ」といった思考プロセスをとる。本稿では立ち入らないが、倫理上の大原則として帰結主義功利主義)、義務論、徳倫理学という3つの大きな考え方があるらしい。

善悪判断のプロセスとして(1)と(2)は一長一短だ。大原則から演繹する方法の欠点は、自然な日常直観を軽視し、「上手く言語化できないが確実に重要」なものを切り捨てかねないことだ。それゆえ、経験上、日常場面では周囲で言われる判断基準に軍配が上がることが多いようだ。その一方で、この判断プロセスにも欠点がある。それは、既存の差別構造に慣れているがゆえにそれを差別と同定できず、差別構造や搾取構造を温存しかねない点だ。その欠点を補うのが大原則に基づく倫理判断である。大原則に基づく倫理判断では「本来どうあるべきか」を考えるので、現状の理不尽を否定するのに都合が良い。例えば、「最大多数の最大幸福」という大原則は、19世紀ヨーロッパで絶対君主の圧政を否定する際の理論的支柱となった。以上の議論より、日常場面では周囲で言われる倫理判断基準を採用し、折に触れて大原則から思考して倫理規範を見直す、と2つの考え方を使い分けるのが良いだろう。

さて、倫理上の大原則として「感覚や感情を持つ全てのものは、その特性に応じた配慮を受ける権利を持つ」という考え方がある。ここから論理的に演繹すれば、牛豚鶏は感覚や感情を持つので、人類による肉食など到底容認できないことになる。肉はタンパク源として有用ではあるが、せっかく人類は高い科学技術力を手に入れたのだから、人工的なタンパク源の研究開発を推進するべきだ。また、脱肉食のライフスタイルを容易にするような社会設計を行うべきだ。例えば植物由来の美味しい模擬肉を開発・販売することが挙げられる。それが「感覚や感情を持つ全てのものは、その特性に応じた配慮を受ける権利を持つ」という理念に適う方針であるだろう。

 

*「肉食は自然の摂理」という考え方がある。しかし、それは「今までそうしてきたから今後もそのままでいい」という悪しき前例主義である。自然界は繁殖最大化は目指しても個体の幸福は考慮しないので、自然の摂理を盲従せず、幸福を最大化するような社会設計を行うべきである。

「介護の生産性向上」は「新しい死に方」への布石と捉えるべし

介護の生産性向上を報じた新聞記事が炎上した。ツイッターには「介護に生産性を求めないで」というハッシュタグができている。

www.nikkei.com

 

「介護現場の実態を熟知してからものを言え」との意見はもっともだ。介護に生産性を持ち込む姿勢を人間性の観点から批判したくなるのも分かる。その一方で、日本がおかれた事態は深刻だ。今後ますます高齢化が進む社会において、貴重な労働力を医療福祉介護という単一のセクターに割くことには限界があるし、割くべきでもない。2060年には高齢化率が40%に達するのだから(今の若者はまだ生きている、高齢者として)、医療福祉介護の機械化やIT化を推進し、一人のケア労働者が楽に多くの被介護者を担当できるようにした方が良いだろう。

むろん人間性が欠けることが懸念される。「機械に介護されるなんて嫌だ」と言う人もいるだろう。だからこそ、人間性と生産性を両立できるような介護のあり方を考えるべきではないのか。人間のケア労働者にしかできないこともあるだろうが、機械ならではの介護のあり方だってあるだろう。コロナ禍で活発化したオンラインコミュニケーションのように、離れて暮らす家族と会話しやすくすれば良いだろう。被介護者同士をつなげるサービスもできるかもしれない。また、今後の技術開発により、物理面・感情面とも配慮が進んだ介護機器が開発されるかもしれない。AIとの会話がより感情に寄り添ったものになるかもしれない。むしろ高齢プログラマが被介護者視点を活かした被介護者向けアプリを開発するかもしれない。未来の高齢者は情報通信機器を当たり前に使いこなすのだから、人間のケア労働に頼らない「新しい幸せな死に方」を模索すべきではないか、と思う。

コンビニは物質的快感は売ってくれるが幸せは売ってくれない

先ほどコンビニに行った。昨今のコンビニには多種多様な商品が陳列され、明るい音楽が四六時中流されている。買う予定のなかったお酒やスイーツを買ってしまった経験がある人も多いのではなかろうか。

問題は、こういった物質的快感は幸福に繋がりづらいということだ。確かに一時的な快感は得られるだろう。しかし、幸福を「持続的・安定的な気分のベースライン」として捉えるならば、物質的快感は幸福にはつながらない。食べたら終わり、それも幸福感は覚えない、衝動とでもいうべきか。むしろカロリーや糖分の摂取過多になって生活習慣病のリスクを上昇させかねない。

最近、ストア派の哲学に興味を抱いている。・・・といっても私は哲学の素人なので「ストア派の哲学とはこういうものだ」ではなく「私がなぜストア派の哲学に興味を抱いたか」という文脈でお聞きいただきたいが、禁欲は長期視点での幸福につながるのではないか? との仮説が私の中にある。禁欲そのものが目的ではない。なんでもかんでも我慢すればいいってもんではない。ただ、適切に納得した上で(この部分を明確に言語化できていない)禁欲生活を送ることができれば、その生活態度自体から持続的・安定的な幸福感を覚えられるのではないか? と思う。我々は物質的快感をあまり必要としていないのかもしれない?

老害化しないためには自分のやり方を相対化して捉えるべき

老害という言葉がある。ここでは「合理的に検討することなく新しいやり方を拒絶し、自分が慣れ親しんだやり方にこだわる人」と定義しよう。「老」の字が入っているから誤解されやすいが、老害に年齢は関係ない(少なくとも原理的には)。従来法と新規法を広く深く比較せずに従来法にこだわる人間は20代でも10代でも老害である。逆に、従来法と新規法を合理的に比較した上で従来法を選ぶ行為は老害ではない。むしろ無批判に新規法にこだわる行為こそ害となりうる。

ここで、私が老害化したエピソードを紹介する。理系大学院生は多量の英語論文を読む必要があるが、私の大学院生時代は高性能な機械翻訳サイトがなかったので英語論文を原文のまま読んでいた。私はTOEICで900点以上取得しているが、それでも日本語論文の10倍以上の時間を要していた。大学院修了後、DeepLという高性能な機械翻訳サイトが現れ、大学院生は英語論文を和訳して読むようになり読解効率が大幅に向上した。その時最初に思ったのは、(英語論文は原文で読むものだ。機械翻訳にかけて読むなどとんでもない)ということだ。これは老害の定義に該当する。原文読解と機械翻訳を比較することなく、「自分がそうしてきたから」というだけで機械翻訳を拒絶したからだ。そこから「自分が老害化した」と自覚し、機械翻訳の良さを腹の底から認識するまで1ヶ月ほどかかってしまった。(なお、今では機械翻訳を利用しまくっている)

自分の行為は相対化して捉える必要がある。たとえ自分なりのやり方で成功したとしても、「自分が今やっていることは目的達成のための一つの手段にすぎない」とメタ的に捉えた上で、「本当にこのやり方が目的達成に最適だろうか?」と問うた方が良い。そうすることで、新規法を提示された時に従来法と新規法の利点欠点や適用条件が見え、最適な意思決定に繋がりやすくなるだろう。機械翻訳の例で私が持つべきだった意識は、「英語論文の原文読解は知識を得るためであり、より効率的に知識を得られる方法があればその方が良い」というものだ。むろん日常のありとあらゆることをメタ的に捉えるのは非現実的だが、自分の思考・行動をメタ的に捉えることの重要性を認識するだけでもかなり違ってくるだろう。

 

*私は保守的な人間ではないつもりだ。むしろ新しいものが好きなつもりでいた。にもかかわらず従来法に拘ってしまったことはこの問題の深刻さを表しているといえる。

「どうなりたいか考えよう」の限界

「どうなりたいか考えよう」という考え方は有用だ。目標を定め、現状とのギャップを認識し、ギャップを埋めるための合理的方策を考える。今まさに問題に直面しているなら、この枠組みは大いに役に立つだろう。また、どうなりたいか考えることで、「問題だと思っていたが、実は問題でもなかった」ことに気づくかもしれない。

一方で、この考え方には限界もある。それは長期的視点の欠如だ。例えば、アメリカ移住のまたとないチャンスが巡ってきたとする。あなたはこれまでアメリカ移住について考えたこともなかった。しかし、これはとても魅力的な機会で、これを逃すと一生巡り会えないかもしれないので、できることならこのチャンスを生かしたいと思っている。問題は、今のあなたの英語力は低く、またその状態で渡米する度胸もないことだ。さてどうするか。怖い怖いと震えながらギュッと目を瞑って受諾ボタンを押すか。それとも、残念ながら今回は諦めるだろうか。

あなたの答えがどちらでも構わない。問題の本質は、これまで英語力を磨いてこなかったことにある。むろん今更そんなことを言っても間に合わない。そんなことは百も承知だし、現実にこういった局面に直面すれば、現状可能な最善手を選ぶしかないだろう。しかし、英語力は多種多様な局面で生きるスキルだ。磨いておけばいつかどこかで役立つ可能性が大いにあるはずだ。そういったことを十分に認識せず、これまで英語力の向上を怠ってきたことが真の原因だ。言い方を変えれば、「たとえ今すぐ英語力が役立たなくても、将来的に生きる機会がやってくる可能性は高いので、今のうちに勉強しておけ」だ。そうすれば、将来渡米のまたとないチャンスがやってきた時に有効活用できるのだ。そもそもチャンスも巡ってきやすくなるだろう。

以上の議論は英語力に限らず、「汎用的なスキル」全般に当てはまる。たとえ現状に問題がなかったとしても、将来必要となるかもしれない能力は今のうちに伸ばすのだ。そうすればチャンスが巡ってきやすくなり、また、巡ってきた際に心おきなくチャレンジできる(そもそもチャレンジですらなくなっているかもしれない)。参考までに、汎用的なスキルの例を示しておこう。偏りが極めて強いことはご容赦いただきたい。

 

・英語力

・プログラミング力

・数学力

・論理的思考力

・読解力

・段取り力

・スケジューリング力

・想像力

・傾聴力

ファシリテーション

・対応力

・発信力

 

以上の考え方は「どうなりたいか考えよう」からは出てこない。「どうなりたいか考えよう」は目的から始める一方、「汎用的なスキルを磨こう」は手段から始めているからだ。「どうなりたいか考えよう」という考え方は大事だが、それが全てだと思ってはいけない。汎用的な道具を磨けば人生の可能性が広がり、今の自分には思いつきもしないような世界に辿り着けるのだ。

 

最後に、2点注釈を付しておく。

  • 目的を意識することの重要性は否定しない、というかめちゃくちゃ重要である。ただ、人生には収束フェーズと発散フェーズがあり、目的ドリブンの思考は収束フェーズ向きである。発散フェーズではまた違った方法論が必要となるのだ。
  • 「今すぐ役に立たなくてもとりあえず能力を伸ばしておけ」と言っても、汎用的でない能力を伸ばしても効果は限定的だ(トートロジーだが)。話者人口の少ない言語を学んでも、それを活かせる機会は限られるだろう。むろん、それ自体が楽しい場合はそれで構わない。

お金と能力の共通点

お金や能力の本質は「汎用的な道具」であることだ。あればあるほど便利だし、増やす努力をした方が人生が順調に進みやすくなるだろう。いずれも人生の選択肢を広げてくれる。

しかし、これらは人生の本質ではない。お金や能力がないからといって、自分の本質的価値まで否定する必要はない。絶対にない。「〇〇がうまくできなくて自己嫌悪」などと言っている人は、自分の価値を能力と紐付けていないだろうか? 努力するのは良いことだが、自分の本質的価値とは切り離しておこう。能力向上とは便利グッズ集めにすぎない。

そして、お金も能力も適切に使う力を伴ってはじめて真価が発揮される。道具の道具たるゆえんだ。が、それは必ずしも容易ではない。適切な使い方ができない人は多いし、お金や能力の使い方はそれだけで十分検討する価値がある。