なぜ楽をして生きていては幸せになれないのか

最近まで生命の本質は脳みそだと勘違いしていた。植物に脳みそはないだろ何を言っているんだ。

生命科学は門外漢なので信用しないでいただきたいが、生命の本質の一つは自己複製機構だと思っている。世界はつまるところ物質が物理法則に従ってガチャガチャ動いているだけだが、太古の地球でたまたま「自らを複製できるような分子」が生まれた。それはその定義ゆえ自らを複製し、増殖を繰り返した。増殖の過程で微妙に構造が変化するものもあり、結果として「(所与の環境の下で)自己複製能が高い分子」と「自己複製能が低い分子」とが生まれることになる。これらは定義ゆえ前者が増えていくので、世界には高い自己複製能を有する分子が多く存在することになる。そうやって今の我々につながっている。そう、世界は本質的に「自らのコピーを作りやすい奴が増えていく」と言うトートロジーでしかない。

ここで一つ問題がある。生命は進化の過程で脳を開発し、感情を獲得してしまった。それが種の保存に有利だったからだろう。しかし、上述のトートロジーは感情を持つ個体にはたまったものではない。体とは分子がコピーを作らせるための道具でしかない。体なるものがあった方が自らのコピーを残しやすいという理由でせっせこタンパク質を作っているのだ。そこには個体の幸福という観念はない。これではいけない、ということで最近の人類は世界を幸福最大化ゲームとして捉え直そうとしている。しかし、世界は元々そういう場所ではなかった。そこに幸福最大化ゲームの概念をエミュレートすることは、オセロの盤面で囲碁を打つようなものだ。不可能ではないかもしれないが苦労を伴う。世界はそのようなことをするために設計されてはいないのだ。「人は楽をして生きているだけでは幸せになりづらい」という法則の裏にはこのような本質的な歪みがあるように思う。